リチャード・クー  日本経済を襲う二つの波

なぜ日本はいつまでも豊かになれないのか


1.テーマ なぜ日本はいつまでも豊かになれないのか。
2.参考集
  @林望のイギリス観察辞典                
  A邱永漢 デフレに強い知的金銭生活         
  B映画 トスカーナの休日 Under the Tuscan Sun 
3.街並の写真
4.感想
  ロックフェラーの数寄屋造り
5.耐久消費財から資本財へ
  「千年住宅」を建てる  杉本賢司
日本は1200兆円捨てたことに衝撃を受けました。
この流れを今から少しでもとどめることを始めたい。
メール    大月としお
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1. テーマ なぜ日本はいつまでも豊かになれないのか。


 本書を終えるにあたって、最後になぜ日本はいつまでもリッチになれないのかという問題について考えてみ

たい。

 私は、ヨーロッパやアメリカはもちろんのこと、台湾や中国など、アジアの国々にも出張することが多い。とく

にヨーロッパへ行くと、みんなが本当に優雅に暮らしているので羨ましく感じることが多い。町には必ず緑豊か

な公園があり、住んでいる家も立派だし、ゆったり寛げるカフェもあちこちにある。GDPの成長率が日本より

低かった時代でも「食」も「住」も実に充実した生活ぶりであった。しかも、行くたびにどんどんリッチになってい

る。台湾へ行っても、ひと昔前に比べればかなり豊かになっているし、東南アジアの各国も同様である。

北京五輪、上海万博を控えた中国がすさまじい勢いでリッチになっていることは報道されているとおりである。

翻って日本を見ると、東京やごく一部の都市を除けば、リッチになっているどころか、駅前通りはシャッター街

と化し、閉鎖する町工場も多く、人々の懐はますます寂しくなっているのが現状である。ここ十数年間がとくに

ひどい。なぜこうなってしまうのか。なぜヨーロッパやアメリカのようにリッチな生活ができないのか。出張す

るたびに、私は考えさせられてしまう。

 ドイツにしても、戦後は日本と同様に国中が焼け野原になった。ところが、いま行ってみると、きれいな

徳間書店

街並みや景観が維持され,素晴らしい家に住んでいる。それに引き換え日本は、電信柱が林立するゴミゴミとした街並みが至る所に残り、人々はどこ

か薄っぺらい建物に住んでいる。この差はどこからきているのだろうか。

 そのようななかで私は最近、日本には基本的に大きな問題が一つあることに気がついた。日本は富の上に富を築くことができないシステムになっ

ているという問題である。

どこの国でも新車を買って何年かすると、その車の評価はガタ落ちになってしまう。アメリカでも日本でもそうだし、中国、台湾、ヨーロッパでも同じで

ある。ところが日本では、「住宅」もクルマと同じように年ごとに評価が下がり、何年かするとタダ同然になってしまうのである。世界広といえども、

そんな国はない。住宅がクルマと同じように耐久消費財として扱われているのは日本だけなのである。他の国では、建てられた家は半永久的に

保つ、という前提に立っている。アメリカ建国の父ジョージ・ワシントンの住んでいた家は、現在もまだそのまま使われている。築何十年前の家はもち

論のこと、場合によっては何百年前の建物も、そこに人が暮らしている。アメリカでもそうだし、ヨーロッパでも事情は変わらない。しかも、それらの

建物の値段は下がっていない。諸外国では、きちんとつくられた建物の値段はその地域に住む人がいる限り下がらないからである。

つまり彼らにとって住宅は、消費財ではなくて資本財なのである。

先に、アメリカの住宅バブル問題に関連して述べたことだが、アメリカでは「家」自体が貯金の代替物になるのである。家それ自体が貯金だから、

人々はその上に付加価値をつけ、評価を高めていく。そのためにアメリカ人はこまめに壁紙を張り替え、外壁を塗りなおし、庭作りや設備の近代化

などにもお金をかける。そうした投資は統計上は消費として計上されるが、それに見合ったリターン(売る場合は評価が上がる)があるから。無駄な

出費にはならない。しかも実際に住みながらの投資だから、その成果は直接自分たちで享受することができる。だから、誰もが家のメンテナンスに

ついて、熱心に勉強するのである。また、アメリカ人はシロアリを最大限警戒している。シロアリは彼らの最も貴重な資本財を台無しにしてしまうから

だ。社会全体がこうした投資を続けていれば、「富」の上に「富」が積み重なっていくため、国民みんながリッチな生活をできるようになるのである。

焼け野原からスタートしたドイツもそうやって「富」を蓄積してきたから、六十年後の今、みんな素晴らしい家に住んでいる。そしてそれが町の美しい

景観をつくっているのである。

 ところが、日本では「富」が積み重ならない。日本では、住宅は三十年も経つと、タダ同然になってしまうからである。海外でも自動車やカメラと

いった普通の耐久消費財は何年かしたらタダになるが、唯一日本だけが、耐久消費財の中に「家」を入れてしまっているのである。

 アメリカでも住宅やアパートを賃貸に出せば、これらの建物の減価償却は税法上認められている。例えばアメリカでは、木造一軒家は二七・五年

で価値がゼロとなる。日本も減価償却は二七年だから、ここは変わらない。決定的に違うのは、アメリカでは(二〇〇四年からのバブル期を除けば)

税法上完全に減価償却された建物でも実際は時価が購入価格より大幅に上昇しているのに対し、日本では建物の時価が税法上認められている

減価償却より早く減少してしまうことである。

 最近の日本の住宅建設費は毎年だいたい二十兆円である。そうして建てられたマンションを売ろうとした時、上ものの評価がゼロ(タダ)

になるのに何年かかるかを算出してみると、図32にあるように約十五年である。
 
話を簡単にするために、ストレート・ラインでタダになると考えれば、新しくできた家は一年目に一五分の一の価値がなくなることになる。同時に、

二年前につくられた家もその一年で当初の建築費の一五分の一の価値を喪失する。三年前につくられたのも同様である。つまりトータルでみると、

一年に失われる「富」はちょうど一年分の建設費という計算になる。言い換えれば、日本では一年で二十兆円の富が煙のごとく消えているのである。

ドイツが毎年二十兆円を積み上げているのに、日本は毎年二十兆円をドブに捨てていれば、六十年もしたら両者の差は千二百兆円にもなる。

この差が両者の町並みの差であり、実質的な生活水準の差になるのである。

 日本に暮らしていると、建物が十数年でタダになるのが当たり前だと思ってしまうが、海外と比べると、そこには壮大な無駄がある。毎年毎年、

日本はGDPの四%にあたる二十兆円をドブに捨てているようなものだから、これではリッチになれるはずがない。「わが家」を建てるために一生懸命

貯金して、ようやく建てたと思ったら、年ごとに建設費の一五分の一をドブに捨てる。日本という国は、これをずっと繰り返してきたのである。

この富の上に富を積み増す海外と、壊してはつくる日本との違いは、図33と図34に端的に表れている。図33は各国の住宅市場の内容を比べた

これは過去につくられた住宅がしっかり補修され、今でも立派に住宅として人々に満足を与えていることを示している。言い換えれば、欧米では

毎年住宅ストックが積み上がっているのに、日本ではまったくそうなっていないということである。

図34は日米両国の新規住宅着工と人口増を見たグラフである。アメリカでは過去二十年、人口が年間二五〇〜三〇〇万人ほど増えていたのに

対し、住宅着工は(二〇〇二年以降のバブル期を除けば)一五〇万戸前後であった。ところが日本は人口増加幅がずっと減少を続け、ここ数年は

ほぼゼロなのに対し、住宅着工は年間一〇〇〜一五〇万戸あり、人口が年間二五〇万人以上増えているアメリカの住宅着工数を超えた年もある。

人口が全然増えていないのに毎年一二〇万戸近い住宅が建てられ売られているということは、ほぼ同数の住宅が壊されているか、放棄されている

からである。こんなことをやっていて日本が欧米やアジアのようにリッチになることは永久にあり得ないだろう。日本は世界一の省エネ国家かも

しれないが、こと住宅資産という観点では世界最大の資源浪費国ともいえるのである。  引用終わり

2.参考集


 
  @林望のイギリス観察辞典                                            100年前ならまだ新しい


家屋 House

 「家」というものに対する考え方が日本とイギリスとでは、基本的にまったくちがっている。

では、いったいどう違うか。

イギリス人にとって「家を買う」ということは、何と言ったらいいだろう、つまり「家屋という建築物の使用権

を買う」とでもいったら分かるだろうか。

つまり、日本の場合、基本的に家は木造である。木造家屋は長持ちしない。三十年も経ったら普通建て

直さなくちゃならないだろう。ところが、家を建てるとなると、これは非常に専門的な仕事で、ごくごく稀に

自分で家を建てる人も無いではないけれど、それは例外、通常は大工さんが家を建てる。それは無から

有を作り出す仕事で、長年の経験と勘、膨大な計算、夥しい資材とそれを組み立てる煩瑣な手順、

重箱の隅をつつくようながんじがらめの法規制、あきれるほどの許認可手続き・・・・、そういうことを考え

ると、日本では自分で家を作るなんてことは事実上不可能だ。そこで、設計を建築家に委嘱し、大工

さんに発注し、大工さんはまた下職の鳶やら、水道工事店やら、電気工事会社やら、ペンキ屋、屋根

職人、ガス工事、建具職人、経師屋等々を頼み、そうしてようやく一軒の家屋が出来上がるわけだから、


平凡社

これは金銭的にも技術的にも、まったく容易ならぬ大事に相違ない。したがって、これは男子一生の大仕事という感じになるのはやむを得ない。

一生の内に三軒も四軒も自宅を買い換える、または作り替える人があったら、それはよほど幸運な人か、それでなければ大悪党に違いない。


 しかるに、イギリスでは家屋は通常煉瓦造りである。田舎の方では石造建築であることも少なくない。ということは、焼けない、壊れない、ということ

である。例えば三百年前に建ったというような家はちっとも珍しくない。百年前なら「まだ新しい」という感じである。すると、その「建築物」としての建

築費の減価償却は、とっくの昔に済んでしまっていると看做される。建って以来その家にはもう何代にも亙って(古い家になると何十代にも及んで)、

いろいろな人や家族が住んできたということである。そういう仕掛けが分かると、なるほどイギリス人にとっての「家」というものは、建築物それ自体

では無くて、その中の空間というか、自分たちが占有する権利を買っているのだということが分かってくるだろう。だから、家の値段が日本より遥かに

安いのは、けだし当然のことわりである。そこで、その家が手狭になったとか、飽きたとかいう場合には、家を建て直すのじゃあなくて、別のもっと気

に入った家を捜して買い換えるのである。「家は天下の回り物」なのだ。

 家を買って、それからどうするか。


 イギリス人は誰でもみな、自分で家の内装を作り替える。なに、ただペンキを塗ったり壁紙を張ったり、家具を入れ替えたりするだけだから、たいし

て難しいことではないのである。ケンブリッジ大学で一緒に仕事をしていたプロフェッサーが家を買った。それから暫くの間、彼はあまり学校に来な

かった。何をしているのかと思ったら、家の内装工事に励んでいるのだった。休みの日などは、まるで職人のような出立ちで、せっせと壁をこすった

りしているのである。ある日訪ねて見ると,壁に穴をあけて電気の配線をしているところだった。「そんな電気なんか素人がいじっちゃあ危なくない

かい」と忠告すると、「馬鹿を言え、イギリスではこんなことはみな自分でするよ。なにも法律で禁じられていないよ。いやさ、こんなことを、危なくて

他人に任せられるものか、ハハハ」と一笑に付された。特別の免許がないと工事してはいけない、という日本のような国からすると、イギリスは

まったく自由で牧歌的な国なのである。


 一昨年の夏、久しぶりでロンドンに滞在した。その時、昔下宿していたロンドン大学教授のローゼン博士の家を貸してくれないかと、手紙を書いた、

するとまもなく返事が来た。「貸して上げたいのは山々なれど、あの部屋はもう作り替えて自分たちの居間にしてしまったので、残念だけれど貸す

部屋がない」とあった。

それでも、懐かしさに訪ねてみた。すると、博士はペンキだらけの手をして、きたない半ズボンをはいて、玄関の天井をガリガリこすっていた。

「見よ、その部屋を!」

博士は私が昔住んでいた部屋をさして言った。見ると、黄色い壁紙が張ってあったその部屋は、今や鮮やかな白壁に作り替えられていた。

「見よ、その壁は私が塗ったのだぞ、エヘン」

私がホッホウ、と感心して見せると、博士は次に今作業中の玄関の天井を指して言った。

「その汚い天井を剥がしてきれいに塗り替えるところでね、ハッハッハ、ま、君はヴィジティング・プロフェッサーだけれど、私は

ペインティング・プロフェッサーってわけさ」  イギリスのプロフェッサーは大変である。

けれどもまた、なんだか羨ましい気もするのである。              完







林望先生がケンブリッジ大学留学時代に下宿した家のことが「イギリスは愉快だ」に書かかれています。




「よくおいでになりました、道はすぐ分かりましたか」、といいながら私を芝生の真ん中の、家全体がよく見渡せるところへ連れて行き、「これは

十二世紀の初め千百二十年に造られた、この国で最も古い家の一つです」とこともなげに言うので、私は殆ど腰を抜かしそうになった。

千百二十年といえば日本では平安時代、例の源平合戦よりもまだ前のことで、本当だとすればこれはえらいところへ来てしまったぞ、

と思った。                                  全文へ




  A邱永漢 デフレに強い知的金銭生活


経済界の常識は大きく変わった

あれこれ後始末に追われているうちに気がついてみたら、歳月は無残に過ぎ去っていて、ついこの間、

新築したばかりの建物がいつの間にか二十年も三十年もすぎてしまっている。

鉄筋コンクリートの建物の減価償却期間は六十年だから、まだ償却がおわるまでに三十年も残って

いるが、現実に、三十年たった建物はもはや新しい建物ではないし、水道管や電気設備にもガタが

きている。ちょうどその持主の身体に起こっているのと同じことが建物にも起こっているのである。

建物がそうなるまで生きているこちらにも責任があるのだが、こちらがくたびれるより建物の方が先に

くたびれるとなると、大修繕をするか建物を建てなおすか、どちらかを迫られて、安定収入どころの

騒ぎでなくなってくる。

現に私が老後のためにと思って布石した財産は実際に自分がその年齢に達してみると、安定した

財産ではなくなってしまった。誰もそうなることを教えてくれなかったし、私自身もうっかりしていたが、

改めて人生には安定した老後はないのだという心境にたちいたった。          引用終わり

           邱永漢著 「デフレに強い知的金銭生活」 PHP刊




映画「トスカーナの休日」の原作にイタリアの建築業者の気分が描かれています。

 どうしてそんなに急ぐんだい?

 建物というのはいったん建てれば相当長くもつもんだよ、

 たぶん千年ぐらいはね。

 改築にかかるのが二週間だろうと、二ヶ月だろうと、

 どうってことないじゃあないか。




         UNDER THE TUSCAN SUN


 住む人も、設計者も、建築業者も、建物は二,三十年でタダという日本の常識の中では

邱永漢先生も仕方がなかったことだったと思われます。

日本は六十年間で千二百兆円分の建物を破壊、放棄した。

これからの三十年間に六百兆円分の建物を破壊、放棄することになります、そして

子孫が住宅ローンを背負って余裕のない生活を続けていくのでしょうか。

中国、インドの成長に伴い地球の資源が逼迫し、世界第二位の経済大国から後退して

ゆけば、今までのような建てては壊す浪費ができなくなります。

多分タダになった住宅を修理して使いながらライフスタイルの転換をする。

暫くは日本の町並みはもう少し貧弱になるだろうけれど、いまから素晴らしい街並みを

そだてるようにしなければなりません。

長寿命住宅を建てることになれば、今を楽しむファッションから、時代を超えて通用する

デザインが重視されるようになって、ここにしかない街並みができてくるとおもいます。



  B映画 トスカーナの休日 Under the Tuscan Sun


ダイアン・レインのフランシスは離婚を癒すためトスカーナにでかけます。

美しいコルトーナの町。
よく見ると屋根も壁も風化してざらざらしています。







コルトーナで築300年の廃屋を買って修理します。
外観を変えることや、壊すことは禁止されています。









50cmの壁の厚みが300年を支える。壁をとりはらう工事です。
原作では実際の壁の厚みは1m。壁に溝を掘ってセントラルヒーティングの配管をする。地面を掘ったほどの残土がでました。



靴を履いたままベッドに入る場面が三つあります。
靴を履いて住む家は頑丈、簡素、こだわらないというイメージ。でもくつろがないなあ。
耐久性のある家が作りやすい。









友人のキャサリンの家。日本人だったら壊してしまう。ヨーロッパでは古いものを大切にする雰囲気がある。
これでも周りと調和が取れているから不思議です。
築何百年かしれないが、壁がしっかりしているから外装と内装のやりかえでいつまでも使用できる。



映画ではご主人エドが最後に登場します。




3.街並の写真


宝塚市
http://yuro-nakao.bglb.jp/lavista_outside/index.html












イタリアの町 Cortona


:http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/32/Cortona-view.jpg


http://static.panoramio.com/photos/original/1913758.jpg


イギリスの町 Bibury


:http://static.panoramio.com/photos/original/417102.jpg


イギリスの町 Rye


:http://files1.guildlaunch.net/guild/library/64928/rye%20house.JPG

http://cs.wheatoncollege.edu/~mgousie/webimages/england/ryeStreet.jpg


ドイツ Bacharach


:http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b0/Bacharach2.jpg




4.感想
  
    


日本人はなぜ家を耐久消費財あつかいするのだろう。 鴨長明の方丈記(1212年)に     {林望先生の下宿した家は1120年に建つ}

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。

世の中にある人と、栖(すみか)とまたかくのごとし。・・・・・・・・・・・・・・・・・・」以下 家の寿命の短さがたくさん描かれています。

これが日本人が短寿命の家を許容する原点でしょうか。古い大寺でも焼失、再建の記録が多くみられます。

江戸時代のおよそ265年間に、江戸では、火元から15町(約1636m)以上焼いた大きな火事が96回あった。(Wikipedia)

木造の家は火事にあったらそれまで、というあきらめから、家の耐久性を期待していないのかもしれません。

日本は敗戦で焼け野原から復興しました。全国戦災史実調査報告書によると、焼失戸数 2,189,440戸 (沖縄と不詳地区を除く)です。

その後六十年間に家の建て替えという目に見えない焼け野原を二度経過しました。戦災の数十倍の損失です。

日本は住宅資産を二,三十年毎にゼロにリセットするのですから、日本人の勤勉さをもってしてもへこたれる日が来ると思います。

生活基盤の住宅資産はいつまでも価値の変わらぬものを建てて生活の安定を確保したいものです。



福田前首相の200年住宅プロジェクトが長期優良住宅先導的モデル事業として、住宅寿命を延ばす取り組みが進められています。

「長期優良住宅先導的モデル事業シンポジュウム」資料
:http://www.kenken.go.jp/chouki/sympo090708.html

これは短寿命住宅の欠点を改良する方向なので、現実的取り組みです。

欲を言えば耐久消費財から資本財へのパラダイムの転換まで踏み込んでいただきたいと思います。


もう一つの方向として、ローテクで千年保つ住宅は世界には現存するようなので(参考集@)、今の技術を加えて千年住宅を実現

して、エネルギーと建設資源の使用効率でも世界のトップにたちましょう。


千年も先のことは想像もつかないというのが本当でしょう。私もそうでしたが、このページを作っているうちに千年が近く感じられてきました。

千年後は宇宙人になっているかもしれませんが、肉体は使わなければ退化するという原則があるので、体力維持のため日常生活は変わらない

と思います。久しぶりに宇宙から帰ってきた人が、日本の自然と街並みに癒される、といってくれたらいいなあと思います。。


ロックフェラーの数寄屋造り

日本建築は数寄屋造りで頂点を極めてしまった、と思っていたら 三澤千代治著「2050年の住宅ビジョン」にうれしい記事がありました。

ロックフェラー邸
アメリカを代表する資産家、ロックフェラー氏の自宅を設計施工したのは京都在住の日本を代表する大工さん、中村さんである。
家は数寄屋造りで、自然との一体感を楽しめる平屋の純粋な日本家屋だ。
写真を中村さんにいただいた。溜飲の下がるおもいがした、とはこのことだろう。
ロックフェラー氏が世界中を見て回り、一番優れている家が日本家屋だったということだ。
彼は文化人としてもつとに有名で美術館をいくつも建てるためお金を寄付している。
美術、文化、歴史、経済、に優れたナンバーワンの男が、日本家屋をえらんでくれたのはうれしい。
日本人の育んできた住文化は、日本人だけでなく人間の住文化になりうる。
ならば我々は誇りをもって、日本の住まいを、文化を輸出できるのでは・・・・・。                       引用終わり




5.耐久消費財から資本財へ



「家は資本財だから千年くらい保つのはあたりまえ」、が日本人の常識になることを願います。


                     「千年住宅」を建てる

                                     著者 杉本賢司  ベスト新書 KKベストセラーズ刊

日本の家はあまりにも耐久性が低すぎる

 ヨーロッパでは、数世紀前の重厚感あふれる住宅が多く使われている。

しかし、日本には長く住み続けられる家などほとんどない。

木造住宅は二十年もすればガタが来て、鉄筋のマンションも寿命はわずか六十年だ。

いま 使い捨て の世紀は終わり量よりも質が重視される新しい時代を迎えた。

一生かけて取り組む家づくりに失敗は許されない。

ならば歴史に学びハイテクを駆使し、千年後まで残る究極の家を日本に建てよう。        カバーより